黒田清隆について

薩摩藩の藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、1868年から1869年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で参謀として指揮をとった。開拓次官、後に開拓長官として1870年から1882年まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、1876年に日朝修好条規を締結し、1877年の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年 (1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。

天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。なお、明治期に子爵になった黒田清綱の家(記録奉行や教授を輩出していた。代々小番。)と同族であるが、遠縁であるという。

長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人としていあわせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝している。

文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷隆盛と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。

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